2011年9月30日金曜日

Q's forum 展示会出展のお知らせ

来る2011年10月7日(金) に開催される Q's forum 展示会に私自ら出展します.

日時: 2011年10月7日(金) 13:00〜18:00
場所: 福岡システムLSI総合開発センター 6F 607 会議室 (福岡市早良区百道浜3-8-33)
入場: 無料

ソフトウェア工学教育の取り組み

私たちの研究室では大学におけるソフトウェア工学教育に取り組んでいます.
既存の教育プログラムでは

  1. 実開発で必要なスキルの育成を意識した基礎教育になっていない
  2. 最近のソフトウェア工学や教育工学の研究成果を取り込んでいない
  3. ビジネスの観点が欠落している
という問題点があります.
私たちはこの現状を打破したいと考えています.産業界からのご意見がいただければ幸いです.


http://www.legato-dc.co.jp/qstenjikai.html

2011年3月20日日曜日

ドラッカーについて語る~齋藤貞之先生退官記念講義


この3月はめまぐるしく様々なことがあり,貴重な体験をしました.3月11日に東日本を襲った大震災もあり,その痛ましい危機的状況の中で Twitter をはじめとするネットワークが目覚ましい働きをしました.翌3月12日にはプライベートワークショップを開催しました.幸い参加者は震災の影響を受けていませんでした.さらに3月19日には教育システム情報学会研究会で初めて発表をしました.これらについても,いずれは語っていこうと思っています.

そんな中,3月20日に私が尊敬する齋藤貞之先生が退官記念講義を行ないました.ちょうど私自身が研究の方向性について思い悩んでいた中で,齋藤先生の講義は,一筋の,いやまばゆい光明に思えました.今回はそれについて語っていきたいと思います.


まず最初に,齋藤先生が自身の研究テーマであるドラッカー(Peter Drucker)に強い関心を持つに至った経緯から,講義は始まりました.齋藤先生は大学生1年生のときに,当時の流行だったマルクスに関心を持ちます.先輩に勧められてマルクスを読んでみて「目からウロコが落ちた」そうです.しかしそれ以上に関心を持ったのが,マルクスが批判しているヘーゲル,カントなどの思想でした.その話を先輩にすると「なぜマルクスが批判する考え方を支持するのだ」となじられ,後に当時の社会がマルクスを賞賛することについて疑念を持つようになります.「私はヘーゲルやカントを純粋に面白いと思う.なのに,なぜみんなはそれらを拒絶するのだろうか」と.だからこそマルクス以外を精力的に読むようになっていきます.そんな中,出会ったのがドラッカーの著書でした.ドラッカーの著書には,マルクスを超えた「未来の社会のあり方」が書かれていると齋藤先生は直感したのだそうです.


ドラッカーはユダヤ人系のドイツ人でした.ドラッカーの最初の著書は1939年の「経済人の終わり (The End of Economic Man)」,次が1942年の「変貌する産業社会 (The Future of Industrial Man)」です.当時のドラッカーの問題意識は,本質的にはその後の書籍にも一貫して受け継がれているそうです.齋藤先生が感銘を受けたのはこの時代の書籍でした.
ドラッカーの問題意識は「このままでは社会が崩壊する」という危機感でした.当時はソ連,ナチス,ファシストといった全体主義が盛んでした.ドラッカーがユダヤ人だということもあったのでしょうが,それ以上に彼は自由主義の危機だと考えたのでしょう.


ドラッカーの仮説は,このような全体主義は,レーニンやヒトラー,ムッソリーニといった人物が登場したことによって生まれたのではなく,社会構造そのものが原因となって生まれたのではないか?ということでした.
この仮説がどういうことか,齋藤先生は当時の社会状況を背景に解説しました.
  1. 20世紀以前は,経済活動の中心は個人でした.また,地域のコミュニティも盛んでした.個人は,地域のコミュニティの中で一定の役割を果たして地域に貢献していました.このことで,地域社会は成り立っていました.
  2. しかし19世紀末から20世紀初頭にかけて,巨大企業という組織が急速に発達しました.個人はコミュニティから引きはがされ,組織の中に組込まれていきます.こうなると個人は「根無し草」になってしまいます.つまり,自らが果たすべき役割を見失い,いずれは企業から使い捨てられてしまう状況に陥ってしまったのです.
  3. 民衆がそのような不安にさらされる中,登場したのが全体主義でした.全体主義では個人が自分の役割を考える必要はなく,与えられた一定の義務を果たせば済む社会でした.自由がない代わりに,役割について悩む必要がない,そんな全体主義の方が快いと民衆は錯覚したのです.
ドラッカーは個人の役割を表す表現として function という言葉を用いました.技術者にとっては function といえば機能とか関数とかいった訳語を連想すると思います.個人が社会に対して持つ機能というのは,まさに個人の社会における役割と言えるのではないでしょうか.

だからこそ,ドラッカーは巨大企業の経営のあり方を研究対象としたのだと,齋藤先生は言います.コミュニティにおける個人と同様に,巨大企業も社会に対して役割(function)を明確に定義すべきだというのが,ドラッカーの一貫した主張なのです.
個人が集まった存在である組織を意味する organization という言葉の語源は,生物の器官を意味する organ です.器官と組織には次のような相似性があります.
  • 役割: 生物が生命を維持できるのは,それぞれの器官がそれぞれの役割あるいは機能を果たしているからです.同様に,社会を一種の有機体としてみたときに,社会が社会として機能するためには,それぞれの組織がそれぞれの社会的役割(function)を果たす必要があります.
  • 不可分性: 器官は生物本体と不可分であり,生物から切り離してしまうと意味を持ちません.これはどういうことかというと,器官は生物の他の器官と相互作用することによって役割を果たすことを意味します.同様に,組織は社会と不可分であり,社会的役割を果たすには社会の他の組織との相互作用が必要不可欠です.
このように捉えたときに,ドラッカーが「組織のトップマネジメントの仕事は何か?」という問いを発し続けていることの背景が理解できます.ドラッカーの枠組みから類推すると,組織の中の構成員も,組織に対して役割を持つことが求められます.トップマネジメントも組織の構成員の1人ですから,当然,組織に対する役割を持つ必要があります.組織のトップマネジメントが果たすべき最重要の役割の1つは,その組織の社会に対する役割を明確に定義することだと,ドラッカーは主張しているのです.


では,巨大企業は社会に対してどのような役割を果たせばいいのでしょうか? ドラッカーは3つのことを挙げています.
  1. 社会制度(institution)を守ること.社会制度は必ずしも法制化されたものだけではなく,文化的なものも含みます.コミュニティにおいて,個人は制度を無視することはできますが,無視するとその個人は村八分にあいます.同様に,巨大企業も社会制度を無視することはできません.この原則により,組織は社会に有用なものを生み出すことが求められます.
  2. 巨大企業の構成員それぞれに適切な役割(function)を与えること.個人が生きていくにあたって function は不可欠です.巨大企業がコミュニティから個人を切り離している以上,コミュニティに代わって function を与えてやる必要があります.
  3. 巨大企業の経営者が経営権を持つことについて,正当化できるよう自浄作用を持つこと.巨大企業は構成員の生殺与奪権を持っています.これはかつてコミュニティが個人に対して持った生殺与奪権をはるかに上回るものです.したがって,経営者に据える人は,そのような権利を行使するにふさわしい正当な資質を備えている必要があります.
齋藤先生は最後にリーダーの資質について触れました.経営には,science の側面と art の側面があります.経営学における典型的な science の例は MBA です.一方で,経営には理屈を超えた感性,つまり art の側面が必要であるという説も根強いです.ドラッカーはこの問いに対して「感性は不可欠である.しかし,最後に決め手になるのは integrity である」と述べています.Integrity は辞書を引くと正直,高潔といった意味がまず挙りますが,ここでは「統合」という意味が適切だそうです.ソフトウェアの世界で integration は統合と訳しますが,integrity は integration と関連が深いのです.
では integrity に必要なのはどのようなことでしょうか.ドラッカーは次の5つを挙げています.
  1. 部下の短所ではなく長所を見ること.
  2. 意思決定をするときに,意見の発言主が誰かによって判断するのではなく,発言内容そのものによって判断すること.
  3. 知性の高い人よりも,integrity のある人を重視すること.
  4. 自分より能力の高い部下を退けないこと.
  5. 自らの業績目標を高く設定すること.
以上が齋藤先生の講義内容でした.

私がこの講義を受けて真っ先に思ったのは,ドラッカーの問題意識は,現代の日本における課題の核心を突いているということです.ドラッカーが当初抱いた「根無し草」の仮説は,まさに現代日本で問題になっている無縁社会そのものです.現代日本でドラッカーが注目を集めている理由の1つは,この仮説にあるのかもしれません.
と同時に,当然のことながらドラッカーの生きた20世紀初頭と,現代日本の21世紀初頭では前提条件が異なるので,結論が変化する可能性があるとも思いました.特に現代ではネットワーク技術の発達が著しく,ネットワークを介した新たなコミュニティが生まれています.そういう新たな時代背景をドラッカーが見たとしたならば,どのような理論を構築していくのだろうのかと,興味深く思います.


他に私が疑問を抱いたのは,「役割を果たすには何をすべきか」の議論です.主体を個人に置き換えて考えてみたときに,確かに社会が個人に求める役割を果たすべきだというのは理にかなっているとは思います.しかし,個人には個性があり,社会が求める役割には収まらない部分があると思います.私自身に置き換えれば,私個人の関心事の広がりは,社会が私に求める「大学教員」あるいは「研究者」としての役割では収まらないと実感しています.
ドラッカーは「集中せよ」と説いていますが,集中して切り捨てられる部分がどうしてももったいなく感じるのです.これは企業が選択と集中ではなく多角化を進める傾向があるのにも通じることだと思います.この問題に対するドラッカーあるいは齋藤先生の意見が聞きたいです.

2011年2月23日水曜日

現在の大学のあり方への疑問~問題解決力を持つ技術専門職を育成する高等教育機関の必要性

私は近年の就職状況悪化の以前から,現在の大学のあり方に疑問を持っていました.
理系の大学生の多くは,卒業すると技術専門職に就きます.でも,現在の理系の大学の多くが暗黙のうちに思い描いている,育成したい学生像はあくまで研究職なのです.実際に研究職に就く卒業生は,けっして多くないのにもかかわらず.
理系の多くの大学の実態は研究職育成機関であるという証拠はいろいろあります.
  • 多くの大学教員は企業を経験していません.したがって,自らが教えている教育内容が実際の企業でどのような意味があり,どう活用されるのかについて,大学教員が把握していなかったとしてもおかしくありません.
  • 大学教員の評価は,研究業績によってなされ,教育実績はほとんど評価されません.したがって,大学教員には教育はそこそこにして研究に力を入れるインセンティブが働きます.
  • 卒業の可否を最終的に判断するのは卒業研究であることが多いです. 最終学年に近くなると研究室に配属され,大学教員から個別に指導を受けます.研究に力を入れるインセンティブが働く上,多くの大学教員は研究職しか経験していないので,卒業研究の指導内容も多くの場合,研究に偏ることになります.
高等教育機関の元々の位置づけでは,(理系の)大学は研究者を育成し,専門学校や高等専門学校で技術専門職を育成するという棲み分けがあります(経緯を細かく見ていくと実は異論がけっこうあるのですが).しかし,いくつかの要因で,将来,技術専門職に就くにも関わらず,企業は専門学校や高等専門学校ではなく大学からの人材を求める状態になっています.その要因を,私は次のように分析しました.
  • 大学がたくさん設立されたので,相対的に大学生の占める割合が増加した.
    専門学校や高等専門学校に比べて,大学の方が数多く設立されました.したがって社会に送り出す学生数も増加したので,企業が大学に求人することが相対的に増加したと考えられます.
  • 企業が専門技能よりも潜在能力を求めている.
    大学生は大学入試をクリアしているので,高校までの知識を一定水準以上身につけていることが期待できると企業は考えているのかもしれません.
  • 技術が高度になり,単なる職業訓練では技術専門職を育成できなくなった.
    専門学校でも高等専門学校でも,元々は「手に職をつける」ことを目標としています.しかし技術の進歩により,理論を知らないことには技術進歩についていけなくなりました.そこで企業は,技能ではなく理論的背景を学習したと期待される大学生を求めているのかもしれません.(もちろんこれは現在の専門学校や高等専門学校で理論を扱っていないという意味ではありません)
学生や親にとっても,大学を専門学校や高等専門学校よりも進学先として選んでいます.その理由を次のように分析しました.
  • 大学卒が就職に有利
    学生の親世代の就職時には,高学歴であることによって就職が有利になった傾向がありました.
  • 就職分野が広い
    専門学校や高等専門学校の出身では就職先が限定されるという先入観があるかもしれません.
  • モラトリアム学生が高校の時点で将来の自身の就職先をイメージできなかったので,「とりあえず」大学に進学している可能性もあります.
社会が理系の大学に求めているのは,研究者育成よりは技術者育成だと考えられます.単純に考えても,研究者人口よりは技術者人口の方が多いですし,結果として求人数も多いでしょう.社会は大学に変革を要求していると言えます.
一方で,大学は研究と研究者の育成という本来の役割に専念すべきだという意見もあります.学術的な研究には公共な価値があるので,たとえ社会が理系の大学に技術者育成を求めていたとしても,それを求める方が間違っている.大学は変わるべきではないという主張です.私も大学の持つ学術的な役割を否定するつもりは全くありません.むしろ,研究はもっと奨励するべきだと考えています.
私の主張は次の2点です.
  1. 日本の理系大学の現状は,教育としても研究としても中途半端である
  2. 既存の高等教育機関では埋められない「空白域」が存在する
それぞれ説明しましょう.
  1. 日本の理系大学の現状は,教育としても研究としても中途半端である
    理系の大学を技術専門職育成機関として見たとき,教育内容が主に実践面で不十分です.加えて,多くの場合に理論と実践が乖離しています.
    一方,理系の大学を研究機関としてみたときには,大学教員に対して教育(やその他の雑用)にかかる負荷が高く,大学教員が研究に専念できる環境にはありません.
    理系の大学を研究職育成機関としてみても,国際レベルで通用する人材を十分育成しているとは言えないかもしれません.
  2. 既存の高等教育機関では埋められない「空白域」が存在する
    技術職を育成する専門学校や高等専門学校が存在し,かつ大学では十分な技術専門職を育成できていない現状があるにも関わらず,企業が大学に技術専門職を求めている現状があります.このことは,埋められていないニーズが存在することが考えられます.
では,どのような技術専門職育成機関が求められているのでしょうか? 私の個人的な仮説を示したいと思います.
大学のあり方についてソフトウェア関連企業の方と議論したときに「(専門学校で)単にプログラムの書き方を学んだだけの人と,背景としての哲学や論理学を内包しての『プログラミング』を学んできた人のどっちが欲しいか?」という意見を頂きました.一方で大学では,哲学や論理学,プログラミングのいずれについても学習する機会があります.しかし,明示的にこれらの関係について教えることはなく,学生の個人的な「気づき」に任されています.
私はここに技術専門職育成機関の空白域の具体例が示されていると考えます.もし,論理学とプログラミングの関係を明示して教育するような技術専門職育成機関があったとしたら? 原理を踏まえた教育をすれば豊かな応用力が身につくのではないでしょうか.
より一般化すると,技術専門職に求められるのは「技術に根ざした問題解決力」であると私は考えます.問題を認識し,解決方法を調べ,選択し,実行して評価する,一連の能力が問われると考えます.まとめると, 問題解決力を持つ技術専門職を育成する高等教育機関が,企業と高等教育機関のギャップを埋める存在であると主張します.
そういう目線で改めて大学の教育を見直すと,たしかに修士で問題解決ができるようになること,とはうたっているのですが,たいていは体系的に問題解決の理論を教えてはいません.研究活動で経験から学ぶことはできるのですが,そこから得られた知識はドメインに依存したものでしょう.
市場価値の観点からも,企業が学生に求めている資質の1つである「問題解決力」に直接アプローチしている点で,少なくとも今現在の市場価値は他の高等教育機関に比べて差別化を図りやすいと言えるでしょう.「長期的にどうなのか」という問題については今後の考察の余地があります.また,「問題解決力があります」と主張しても,実績を積まないとなかなか理解が浸透しないでしょうから,学校全体で就職活動ならびに企業へのアピールにつとめる必要があることは間違いないでしょう.

2011年2月19日土曜日

西洋の考え方(哲学,科学,...) 〜 時計じかけのオレンジ

今日は妻のすすめで「時計じかけのオレンジ」を見ました.それも映画と演劇の両方です.

快/不快でいえば,不快な作品ではありましたが,哲学的で考えさせられるところが多く,また見たいと思いました.精神的に大人になってから見るべき作品で,私も20代までだったら,この作品を見ても嫌悪感だけしか持たず哲学的な意味を考えることはなかっただろうと思います.

以下,作品そのものについては触れず,作品を見て私が考察したことを書きます.

まず思ったことは,この作品の端々に西洋哲学あるいは科学の考え方が見え隠れすることです.作品の中で純粋な(あるいは極端な)状態での究極の2択が現れます(具体的に何かは申しません).A と B という考え方のどちらをとるかを迫るのです.このアプローチはサンデルのこれからの「正義」の話をしようでもとられています.これが「考えさせられる」最大の要因です.

しかし,私はそこに違和感を感じます.仮にそういう極端な状況で考えると A の考え方が妥当かもしれないと思いはするのですが,でもやっぱり普段の状況だと A と B をその時々で総合的に判断するのが妥当だろう,と思ってしまうのです.抽象化しすぎ・捨象しすぎのように思えるのです.現代の西洋科学では複雑なものを単純化しないと扱えないのですが,それと同根なのだろうと考えるのです.

もう1つ考えたのが,西洋では「責任ある自由」をとても大事に思っている点です.そして自由には危険がつきもので,彼らは「自由であるがゆえの怖れ」と常に戦っているのです.

私は以前から自由と安定(安全・安心)は,ほとんど両立しない相いれないものだと薄々思っていました.この作品で感じた「自由であるがゆえの怖れ」を見て,確信に至りました.

と同時に思ったのは,もし自由と安定を両立する道があるとしたら,「自由であるがゆえの怖れ」を超克することが鍵になるのかもしれないということです.

映画




私は Apple TV で見ました.


演劇 



小説もありました



参考文献

2011年2月14日月曜日

組込みソフトウェアギルド,はじめました.

本日,私たちは「組込みソフトウェアギルド」を始めました.ぜひご活用ください.

組込みソフトウェアギルド
http://www.embeddedsoftwareguild.com/
組込みソフトウェアギルド』とは組込みソフトウェアギルドはギルドへの相談者に対して、問題を解決するための窓口であり、問題解決を提供するプロフェッショナルエンジニアの集団です。

私の他のメンバーは,林 好一さん,酒井 由夫さん,今関 剛さん,河野 岳史さん,酒井 郁子さんです.

私はかねてより組込みソフトウェア分野において産業界と学術界の距離を近づける力になろうと心がけていました.同時に私自身あるいは学術界の限界も常々感じていました.つまり,大学での研究は実践とはどうしてもかけ離れているということです.また学会での評価基準は新規性に傾いており,そのような研究は学術界では評価されても開発現場に役立たないことの方が多いです.

結局のところ私の関心は,自然科学・工学上の知的好奇心を満たすことよりは,技術を背景にして社会を変革することに傾いているのだと思います.その意味で私は単なる研究者ではあり得ず,むしろ運動家的なのだと思います.

そうは言っても,私自身は企業でのソフトウェア開発を経験していませんので,しょせん学者の世迷い言でしかないと自覚しています.ゆえに私は,企業の中に入って変革できる能力を持つ人と組む必要があるという動機があるのです.そう,西先生の産コン学の言うとおり,私はコンサルタントを必要としているのです.

ギルド設立に関わっていく中で,私がどうギルドに関わっていくかをいろいろ考えました.結論として,私は表舞台に立ってコンサルティング活動をするのではなく,裏方に回って他のメンバーの活動に役立つような書籍や論文,事例などを収集・展開する役割を行うのがよかろうと考えました.開発現場にどのような課題があるかは他のメンバーが把握しています.あらかじめ課題解決に必要な情報をふんだんに用意しておけば,他のメンバーがそれらの情報を活用して課題を解決するでしょう.私には,お膳立ての役割がよりふさわしいと思います.

ギルドの他のメンバーは,コンサルティングの経験も豊富で,それぞれ得意分野をもっています.組込みソフトウェア開発で真剣に悩んでいらっしゃる方がいましたら,ギルドを通じて彼らにぜひ相談してください.あなたの抱えている問題を少しでも解決の方向に導きたいと思っています.

今後とも,ギルドをよろしくお願いします.

2011年1月30日日曜日

「モノづくり」と「サービス」の統合〜サービス・ストラテジー

本書では「サービスとは何か」という問題から議論が始まります.伝統的な「サービス業とは産業全体から農業,工業を差し引いた残りである」という定義,ブラウニングとジングルマンによる詳細な分類の定義を紹介していますが,そもそもこのような分類には限界があると主張しています.それどころか,一般にはまったく別の産業と思われる「モノづくり」と「サービス」は実のところ表裏一体だと認識すべきで,それらの区分は人為的なものにすぎないと主張しています.
このような「モノづくり」と「サービス」を統合するような見方は意外と古くから論じらおり,本書では1972年のセオドア・レビット(Theodore Levitt)が元祖だとしています.セオドア・レビットというと,たとえば鉄道業は単なる鉄道業として狭く捉えるべきではなく,鉄道,自動車,航空機,船舶などを統合する概念である「運輸サービス」として広く捉えるべきだと主張した人物です.このように広義に企業の事業ドメインを定義することで,顧客がその企業に何を求めているのかを認識し,事業全体を顧客の視点に立って見直すことができるというのがセオドア・レビットの考えです. このような考え方に基づけば,「モノづくり」を単に製品を提供することと捉えるのではなく,その製品によってもたらされる価値を提供する「サービス」の一環だと捉えることがごく自然に思えます.
本書で取り上げているセオドア・レビットの主張[Levitt 1972]は次の通りです.
本来,サービス業などのというものは存在せず,どの業界もサービスとかかわりがある.他の業界と比べて比重が大きいか小さいかだけが違いなのである.
本書はこの考え方を拡張しています.まず「純然たるモノづくり」「純然たるサービス」をブラックボックスと考えて,その入力と出力が何かを考察しています.
次に,この考えを一般に拡張すると,たいていは「モノづくり」の要素と「サービス」の要素を併せ持っていると考えられます.そこで,サービスに関わる側面を表舞台,モノづくりに関わる側面を裏舞台と呼び,それらが連携して全体の事業を構成していると考えます.
本書の主張は,表舞台と裏舞台は緊密に連携しあうべきであることです.表舞台と裏舞台が緊密に連携しあうべき理由は,将来はサービスの比重が高まるであろうという予測です.予測の根拠の一例として,トヨタ自動車が提供する自動車の品質(モノづくり)とそれを販売するディーラーのサービスのどちらが顧客満足度に影響を及ぼすかという統計があります.ここからは「顧客を引きつけるのは性能だが,購入を決定づけるのはサービスである」ことが読み取れます.
本書では,表舞台と裏舞台をどのように緊密に連携させるかについて,この後に展開していきます.この議論の中で,(広義の)サービス実現の有望な一手段として,マスカスタマイゼーション(mass customization)やプロダクトライン(ソフトウェアプロダクトラインという意味ではなく製品系列という意味)にも言及しています.私もサービスとプロダクトラインの関係についてボンヤリと考えていましたが,本書によって確たるパラダイムとして私の頭の中に結晶化されたように思います.
[Levitt 1972] Theodore Levitt. “Production-line Approach to Service”. Harvard Business Review, September/October 1972. (サービス・マニュファクチャリング. ダイアモンド・ハーバード・ビジネス・レビュー 2001年11月号所収)